2011年12月14日
秋の合同研究集会に参加して
合同研究集会の構想を話したのが、一作年の春頃だったと思う。大事をとって去年は、話題にのせるだけだった。今年は、思い切ってやってみようと提案した。幸い委員各位の賛同を得て、今年秋実現の運びとなった。とはいえ、ふたを開けるまで、心配の連続だったが、当日、民主会館2階のA,B両会議室に並べられた椅子とテーブルが、ほぼ一杯になるくらいの参加者が得られ企画者は、安堵の胸をなで下ろした。愛媛、京都、奈良から参加してくださった講演者、報告者に心から謝意を申し述べたい。
研究集会では、企画者の予想を遙かに超えて、まさに今日的課題を巡る密度の高い議論が展開された。はしなくも「白熱教室」が出現したといえるだろう。ポイントは、体制論と成熟論との「衝突」であった。「成熟社会」論という問題の立て方に「違和感」があるかもしれない、というところから始まる碓井教授の報告に私は、実は内心驚いていた。しかし、聞き続けて行くにつれて、そうした話の切り出し方の意味が明らかになる。
「違和感」といった対立的な、または挑発的な言葉遣いをしながら、それを乗り越えて行かねばならないというのが報告の真意であった。こうもいわれた。「現代では体制論は求められていない。」「体制論は淘汰されるだろう。」「私たちは淘汰されてはならない。」と。現代の要求は、もはや体制論ではなく、成熟(社会)論なのである。この表現は、「人権21」でも紹介した前著『格差社会から成熟社会へ』の趣旨をより強調するものとなっていると思う。
体制変革論といえば、もちろん資本主義から社会主義への体制変革がテーマであり、現代のさまざまな問題は、体制変革の中で最終的に解決されるという議論である。体制変革のためには、権力の掌握が必須であり、さまざまな抵抗や障害は、権力的に乗り越えられるものと想定されている。したがって、体制変革論は、権力論、権力奪取論である。その無惨な失敗の実例として、ソ連の崩壊が私たちの前に横たわっている。
ソ連とは違った形での、体制変革論を模索するという試みが現代にも続けられていることは間違いない。というより、成熟論と変革論との結合が予定されてきたというべきかもしれない。今回の記念講演をしてくださった鈴木先生にしても、あの朝日訴訟の成果を受け継ごうとする強い姿勢で若者たちを引きつけておられる先生であり、あの朝日訴訟そのものが成熟論と変革論との結合物であった。
生存権は、日本国憲法が謳う権利である。ただそれがともすれば「絵に描いた餅」になり、財政状況によって「削減」されたりする。市民運動によって、そうした動きをチェックする必要があるというのが、朝日訴訟だと言って良いであろうが、その運動が展開されていたさなかに、「この運動は特定政党に利用される恐れがある」「いやそれは思い過ごしだ」といった記事が岡山支部の患者自治会紙「療和新聞」に掲載されたりしたことは、この運動の中に、成熟論と体制論とが混在していたことを示している。
あるいは、成熟論の進展が、やがて体制変革につながるのではないかといった期待も秘められていたかもしれない。岡映と融合論との関連というテーマが、手島先生の報告であったが、実は、ここにも部落解放という課題と体制変革との関連という課題が存在している。融合論は、成熟論(民主化の中で差別解消)の側面を前面に出している議論であり、岡映の部落差別と独占資本との結合を否定する奈良本説に対する初期の批判は、体制変革論が前面に出た議論である。岡映の中に、すでに体制論と成熟論との二つの観点が存在していたことを今回の研究集会は、側面的に解明した。
成熟論が正面から論じられるに到ったことは、実は、現代史の急激な進展を物語っている。こうした激変の中に生きる青少年は、この時代の流れをどうとらえているのであろうか。その点に光を投じたのが、北川先生の報告であった。少年たちの心がとらえているもの、それをはっきりと表現する手だてを与えたのが、北川先生の教育実践であった。少年たちの作品集「想いよとどけ」に収録された川柳「腕きった ガラスで夜もねむれない」「一日で 命の尊さ 知りました」「旅立ちの 空は快晴 桜色」等は、実に時代の心の鮮明な表現なのである。
今秋、私たちの開催した研究集会は、はしなくも時代の課題を正面からとらえるものとなった。来秋にも、同様の企画を立てようと考えているが、今回の成果をさらに発展させるものとしたいと思っている。
いわま かずお 当センター理事長